大野義光 大野丁子

 

TALK - 04 “ 写への姿勢と評価 ”

中原 刀工って、全国に何千人もいるわけではない。全国の人々の一握の中の一握、外から見れば特殊な存在なんだよ。これは前々から言っている事だけど、刀工も研師も学芸員も研究家も、一つの共通項がなければいけないと思う。

 

司会 それは基準ですか? 中原 基準の前に・・・大野刀匠を見てて“違うなこの人は”と思う事が一つある。・・・“刀好き”、“小道具好き”・・・簡単に言えばこの一言に尽きる。

何代にもわたって長年続いている刀工もいるけど、その刀工の基を辿れば元来家業としていたり、刀が好きという出発点ではなく“そこに刀があったから”という始まりだったりする。一概には言えないけど、基本に“刀が好き”という共通項がほしい。理屈抜きで金銭のためではなく“刀好き”の人間になってほしいな・・・私の勝手な要望だけど。
大野刀匠は焼物にはこだわるし仏像なんかにも目がない・・・本当にその手の古美術が好きなんだよね。

 

大野 骨董屋をやろうかと思っているぐらい好きですね〜。

 

中原 刀の権威や利益は好きだけど、刀そのものが好きという関係者って意外と少ないよね。僕が今まで知り得た人だけの範囲だけど。刀が好きっていう人は伸びるよ。知識にも欲が出る。“仕方なく伸びるではなく、自然と伸びる”が理想なんだろうな。

大野刀匠、以前、現代刀工の中身が入った拵を買ったでしょう? あれは網代拵の写だったかな?

 

大野 はい、買いました。中身はどうでもよかった。あの拵が欲しかったんです。現在、あの拵を作れる人はいないでしょう。中身はね、自分のを入れ替えてもいいからね。アハハハ。

 

中原 新しく作るより、なぜ古い昔の拵を求めるのか。・・・これはね、写の構図と同じなんです。本歌はない、となると写を求めざるを得ない。いま写してもそのレベルには作れない。つまり、本歌に出来るだけ迫った技術なり所作なりが欲しくて評価して買うわけです。大野刀匠が写を買う。そして大野刀匠が写をやる。これは僕から見たら文化だと思う。

 

司会 拵の写って、今では難しいのでしょうね。でもそれをしないと拵なんか残らなくなりますよ。拵の寿命は短いですからね。

 

中原 次の世代に繋げられなくなるよね。戦前まではやっていたのにね。これは文化の継承に必要不可欠な事だよね。戦前までは拵の写というものに対する正確な解釈がキチンとなされていた。莫大な金がかかったけど、やっていた。

 

司会 だから今まで残っていたんですね。写物を止めてしまうということは、文化を遮断するようなものですね。

 

中原 戦前は、拵の写で究極の仕事をする人達がいた。その代表が網屋・・・それこそ古い金具を大量に持っていて、刀に合わせて誂えるのですが、そのこだわりが半端じゃなかった。小道具、金具はもちろん、塗、全てにおいて最高の職人を雇って作る。それをコーディネートをするのが網屋なわけで、拵に関するあらゆる知識とノウハウを熟知していないとできない。そして作品は今となっては見事の一言に尽きた。

これだって、写と同じ。古い拵を再現するのと同じ。こうやって写をやってきたから今に繋がるわけで、古に倣って結果的には古を受け継ぎ、違った新しさを伝えることになるわけですよ。

 

大野 刀剣界だって同じことですよね。古いものを見て倣って、新しい何かを生み出し、またそれを次の者が伝える・・・

 

司会 そうですね。僕たちがこういうのは簡単ですが、それを実行するのは大変です。大変だから好きじゃないと研究も進まないし、続かない。

中原 山鳥毛写にも拵があるけど、あれを写すのは大変だったでしょう。

 

大野 苦労しました。特に縁(ふち)と鎺(ハバキ)。三所物の案も考えて、白銀師の所に行って図面を確認しながらお願いした。それを白銀師に見せたら「一度、作った事があるから」と二つ返事で引き受けてくれたけど、ある箇所で意見が食い違った。「縁の天井部に着(きせ)の段差があるはずだ」と言うんです。「いえ、ありません。」となり、話は平行線。写真と押型を見せてようやく無い事を確認させたんです。古い拵だから、赤銅の着だと思っていたらしいんです。・・・やっぱり現物をよく観察して確認しないと、写をやるのに間違ってしまう事になるんです。

彼が勘違いしていたのは、自分の記憶にあった情報と寒山先生から「古い縁は着が多い・・・」と聞かされていたので、その固定観念が頭から離れなかったのでしょう。

 

中原 自分の目で確認し検証する事の大切さが、そこに表れているよね。

 

大野 それから姫路の鞘師を訪ねて、拵を作っていただきました。合口拵ですから縁に合わせて削ります。すると、栗型の所に穴があいてしまったんです。何のことはありません。原因は私の刀が本歌よりも先幅が2ミリ(7厘弱)ぐらい広く作りましたから・・・言われて初めてわかった。それまで気づかなかったんです。本歌は先幅(横手)の幅が22ミリぐらい(7分2〜3厘)、私のは約24ミリ強(8分)で作るから約2〜3ミリ広い。その分、姿を整えると元の踏張もちょっと広くなっていたわけです。その踏張の幅差1ミリのせいで穴が空いてしまった。拵の写はとにかく大変です。関わる人達の連係プレーが如何に大事かを教えてくれます。

 

司会 なるほど、それほどのギリギリの仕事を昔はしているという事ですね。

 

大野 そうなんです。鯉口のところなんか1ミリぐらいしか余裕がない。それだから、1ミリ大きくして縁を作り直してギリギリ収めました。
写の拵を作る際、鯉口はとても重要で、刀の身幅や重ねも作ろうとする拵(鯉口)の事を考えて作刀しています。そうしないと、後々鯉口の形をいじって(歪にして)合わせる事になります。特に合口拵の場合は鐔がありませんから、誤魔化しがききません。中心の形と反も同じで、初めに写の木型を作製し刀工がそれに沿って作るんです。

 

中原 これは刀(中身)ではなく拵の写をやっている話でも、これぐらい気を遣って時間もかけてやっている。ここを若い人に見習ってほしいんだよ。写、写と僕たちが簡単に言うけど、写とはそうそう容易に出来るものではないんだよ。

 

大野 そうですね。相当研究しないとおかしな形になってしまう。

 

司会 大野刀匠は拵にしたってかなり突っ込んでやりますが、他の刀工なんかはどうなんですか?

 

中原 いやー、やらないだろうね、そこまでは。つまり、それが“刀好き”“小道具好き”のところにあるんだろうと思う。加えて、拵は面倒だよね。刀の場合は一人で済むけど、拵は関わる人が色々いて、それをコーディネートするだけでも大変。本当に好きじゃないと、思うものは出来ないだろうね。
そして今は、拵をコーディネート出来る人がいなくなった。金具を持っていないとダメだし、予算がかかるしね。

 

司会 お金の話になりますが、今の現代刀工は自分の刀と昔の刀を較べられた上に、古い刀に対して安い金額で売られているのを見て、苦々しく思っているんでしょうね。

 

大野 私もそれは刀剣商に言った事があります。現代刀はえらい安く買いたたかれると・・・しょうがないとはいえ、悔しいですね。

 

中原 そうして結果的に自然淘汰されて生き残った刀工の作が、何百年と生き残っていくんだろうね。

 

司会 でも、大野刀匠の刀はかなり高いですよ。それでも、それくらいの価格で取引されないと、刀工は喰えないはずなんですが。

 

中原 最初に300万で出ていって、点々として市場に出る時には100万・・・これはしょうがない。市場原理だからね。それが僕の言う自然淘汰。ただ、それなりの刀工の刀が50万前後で売られているのを目にすると、少し空しいね。

 

大野 原材料費を差し引いたら、赤字ですよ。でも、売れない現実を考えるとしょうがないのかなあ〜。今ね、研、白鞘、鎺、まとめて頼んだら最低50万は超えちゃう。でも売る側の手間や時間を考えたら仕方ないのかもしれない。

 

中原 ただ、これだけは言いたいよね。・・・現代刀工の価格設定は、古い刀と隔別すべきだと思う。別けるべきだよね。これならある程度、現代刀工は少しはやれるかもしれない。それでも全員は救えない!!

 

司会 であれば、現代刀工の作はアートとしてみるべきなのか、それとも美術品としてみるべきなのでしょうか?

 

大野 私は美術品としてみるべきだと思いますね。

 

司会 そうですね、現代刀は古美術品の延長にあるものとして一応みられている。おかしいのか、正しいのか? 外国の人なんかから見れば、たぶんアートの分野に見るでしょうね。

 

中原 大野刀匠は、アーティストと言われたら嫌でしょう?

 

大野 そうですね。私もね、その類いの話を研師とした事があるんだけど、結論的に刀は美術品か?芸術品か?って。彼はね、刃文の刃取りを芸術的と言ったので、私は刀は芸術じゃないよと言った。彼は「じゃー何を芸術というんだ?」・・・酒の入った席だったけど、色々と意見を交換しましたね。

・・・私はね、やっぱり美術品だと思う。芸術品はね、汚くてもキズがあっても芸術品として通用するけど、美術品としての刀はそれが許されない。フクレがあったら欠陥品と言われてしまう。刀にとって疵は疵、刀が芸術品だったら許されちゃうの?って思う。

 

司会 芸術品は、その所作に理由があればいい。その違いはハッキリ異なります。

 

中原 僕はね、大野刀匠に以前教えてもらったことがある・・・「すべて結果オーライですから」と。言い過ぎかもしれないけど、この言葉に全てが詰まっている気がする。 例えば、清麿と固山宗次を考えたって、やり方は全く違うわけでしょ。・・・でもね、最終的に答は一緒で、“結果”なんだよ!! 何しろ、その結果だけをみんなが見て評価しているんだからね。

 

大野 そうですよ、生きているうちは人間性どうのこうのと言うかもしれないけど、死んじゃったらそれはないし作品しか評価するものがない。

 

司会 世渡りが上手ければ、人から良くは言われますが、作品、結果は、100年後200年後の評価ですもんね。

 

中原 何百年も前のものが今に残り、あれこれ評価されている。逆に言うと、それだけ写の数、テーマにされた数だけ評価されているということなんだ。

 

司会 本歌に迫る、そういう行為がやっぱり大事なんですね。この考え方が根拠にあって前面に出す。そしてそれと戦う事自体が難しい・・・

 

中原 大野刀匠の山鳥毛写、これがいかに難しいか。その写に挑戦した数が物語っているよね。何しろ本歌は過去にたくさんの刀匠達が見ている。でも、誰も作っていない。本歌を見て誰もがやりたいと思ったはず。でもやろうとしなかった、いや、やれなかった。写・・・山鳥毛の写はそれだけ難しいものなんだと思いますよ。

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